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ジョセフ・ヒース『啓蒙思想 2.0』

以前からその存在は知っていたのですが、宇野先生の『保守主義とは何か』で参照されていたことから気になって読むことにした本(学術書ではなく一般書ですが)です。期待した以上に読ませるものでした。

啓蒙思想2.0―政治・経済・生活を正気に戻すために

啓蒙思想2.0―政治・経済・生活を正気に戻すために

 

 

保守主義とは何か - 反フランス革命から現代日本まで (中公新書)

保守主義とは何か - 反フランス革命から現代日本まで (中公新書)

 

 

 著者はカナダ、トロント大学の哲学者、ジョセフ・ヒース(Joseph Heath)さん。

 

本書の醍醐味は、人間の認識(理性/直感)から説き起こし、政治・社会論にそれを敷衍していくことにあるでしょう。その結論は、新たな形での理性の擁護(「啓蒙思想2.0」)と保守主義的な「熟慮」、「スロー・ポリティクス」の勧めとでも要約されます。

 

「啓蒙思想2.0」と保守主義の擁護

ですが、「直感」的には、この両者がどう相容れるのか不思議になるでしょう。というのも、近代における保守主義は、(日本の「保守」のような妄想に走りがちなイメージを想起すると混乱しそうなのでやめましょう)イギリスのバーク(Edmund Burke)などを想起すれば明らかなように、啓蒙主義への反動として生じてきた筈です。そうであれば、「啓蒙思想2.0」と、保守主義的「熟慮」がなぜ同居するのか、との疑問が浮かんでくるのは自然なことでしょう。

 

この疑問を解くカギは、啓蒙思想「2.0」にあります。ヒースは、啓蒙思想1.0、すなわち18,19世紀からの近代的啓蒙主義(「啓蒙思想1.0」)は、孤立した個人の理性の能力を過大評価していたことに、その挫折の原因があると論じます。ヒースはこれを斥け、代わりに、「集団」的なプロジェクトとして、新たな形で啓蒙思想を定式化しようと提案します。「2.0」が「2.0」である所以は、「集合」的プロジェクトとして、かつての「ウェブ2.0」とのアナロジーでこれを理解できようとの意図とのこと。ただ、この「集団」という言い方はややミスリーディングで、それには、理性の「公共的」な使用の尊重といった意味(「集合知」に近いと理解すればよいでしょうか)のみならず、時間軸的な意味も含まれるようです。これは何も難しいことではなく、「何世代にもわたって受け継がれてきた社会制度と文化」に刻印された、「それ相応の先人の知恵」(406頁)を過小評価するべきではない、との指摘を引用すれば、その意味するとこをもすぐに理解できることと思います。同時にそれは、社会工学的な発想への警戒感を示唆しており、そこから「啓蒙思想2.0」と保守主義的「熟慮」の両者の、一見すると奇妙な「同居」も腑に落ちるものとなる筈です。

 

しかし、残念ながら現状は、本書の提唱するような方向とはかけ離れてしまっています。(というか、それが問題意識となってこれを世に出したのですが)「行き過ぎた」理性への信頼を諫めていたはずの「保守」は、時を経て単なる反合理主義に堕し、直感による政治を説く「常識保守主義」になってしまっている。他方で、啓蒙思想1.0の主導者であったはずの左派は、戦後期のポストモダン的風潮にあって、理性の負の側面を強調し、それを徹底的に貶めることとなった。現代はその成れの果てであって、(副題にあるように)政治、経済、生活が「正気」を失っている。ヒースは、このいずれも斥けつつも、やはり進歩のためには理性が必要不可欠であり、「啓蒙思想1.0」は「2.0」に修正したうえで、改めてそれを擁護していくべきとの立場を取る訳です。

 

雑感

以下は気になったこと雑感。

 

1. 「啓蒙思想2.0」について

初見のときは、ポストモダンによって強く否定されたモダンを救済するという方向性が、ハーバーマスの議論を彷彿とさせるなぁとぼんやり思っていたのですが、実際ハーバーマス関連の論文をいくつか執筆しており、少なからず影響を受けているようですね。(訳者あとがきでも指摘されてました)「理性」をその汚名から救済しようとするような試みは他にも多くあり、本書の第8章でも言及されているのですが、ハーバーマスのコミュニケーション的理性などはどう評価しているんでしょうね。(論文にあるようなので読んでみようかな...)

 

2. 「啓蒙思想1.0」の理解について

一般書なので突っ込んでも仕方ないのですが、近代啓蒙の理解が一面的に過ぎるのではないかと感じる場面が多かった。『岩波講座 政治哲学2 啓蒙・改革・革命』ではこんな指摘がされます(序論 ⅷ頁)。

...人間の理性を無条件に信奉した主知主義という啓蒙のイメージは、のちの保守主義やロマン主義が構築した歴史的産物である。たしかに啓蒙の多くの思想家は人間の知的能力を重視して、「理性」という語彙をよく用いた。しかしこの時代の特色は、むしろ情念や利己心の役割に対する注目にもある。あるいはヒュームやカントがおこなったのは、理性を吟味してその限界を示すことであった。啓蒙の多くの思想家に見られるのは、理性崇拝ではなく、人間の知的能力すら冷徹に吟味する批判や懐疑の精神である。

当時の社会で一般的に受け入れられた「啓蒙」と、カントらの思索とを区別する必要があるのでしょう。本書が想定しているのはおそらく前者で、フランス革命期における理性崇拝の例などが言及されています。ただ、少し紛らわしいのかもしれません。

 

他にも、言語と理性の関連性(第1章)、差別のくだり(第13章)など、とても興味深く読める箇所が多いので一読の価値はあると思います。

佐々木毅『プラトンの呪縛』

 佐々木先生の『プラトンの呪縛』です。

プラトンの呪縛 (講談社学術文庫)

プラトンの呪縛 (講談社学術文庫)

 

 本書は、20世紀におけるプラトン解釈、より正確には「政治化」されていったプラトンを巡る議論の展開を振り返りながら、20世紀の政治思想史の一端を描こうとしています。「政治化」とは、20世紀当時の政治情勢に関連付けられながら、その思想が解釈されていったという動向を指します。すなわち、20世紀に入って、旧来の秩序が解体し、急速な民主化が進められる過程にあって、同じくギリシア社会の解体期に登場したプラトンの思想が、非常なアクチュアリティをもって解釈されるようになったということです。本論では、新たな国家の行く末を示唆する存在としてプラトンを解釈していくドイツの議論に、英米における「プラトン批判の砲列」を対置しながら、プラトンの「政治化」の経緯を詳述されていきます。ナチスドイツのファシズムやソヴィエトの全体主義国家が登場すると、プラトンの国家像がそれに重ねられ、「政治化」は一つの極点に達することとなりました。

 

「警告者」としてのプラトン

20世紀後半になると、ワイルドやシュトラウスらによって、全体主義国家の積極的容認といった「改釈」は微妙に息を潜め、その反面、近代的価値観に警告を与える存在として、有益な部分が強調されるようになります。プラトンを巡る議論は次第に下火になっていったようですが、それでも依然として、プラトンを頭の隅に留めおく意義はあろうと本書は説きます。冷戦終結とともに「歴史が終わり」、自由民主主義を根本的に否定するような思想的ないし政治的勢力はおおかた失われていったが、むしろそれ故にこそ、「自らの足で立つためにますます思想的な「警告者」を必要とするようになっている」(363頁)と論じられる訳です。

 

本書は98年に書かれ、2000年に文庫化されたようですが、2017年現在、「警告者」の必要性は、かつてより高まっているのかもしれません。ただ悩ましいのは、自由や民主政治、平等といった価値観に対して向けられたプラトンの批判の鋭さに由来する、ある種の「ジレンマ」の存在でしょう。すなわち、一方で、その批判の鋭さゆえにこそ、「よき警告」として、近代的価値観の自戒を促すといった役割を期待できるのでしょうが、他方でそれは、プラトンの民主政治批判が、現代にも容易に援用できてしまうことをも示唆しているのです。そればかりか、少なからず魅力的なオルタナティヴな政治の在り方さえ提示されます。「よき」警告者であればあるほど、「悪用」(と言っていいのか分かりませんが)されたときの威力も大きくなります。本書が世に出された当時、自由民主主義が「安定した思想的地位を確立した」ように見えた時期にあっては、まだそうした潜在的な副作用に抗するだけの余力もあったかもしれません。しかし、この「ジレンマ」をよくよく考えて見るならば、プラトンは、一度弱ってしまった者が飲むには少々「劇薬」に過ぎるのではないかと思わずにはいられません。

杉田敦『境界線の政治学 増補版』

法政大学の杉田敦先生の論文集です。

境界線の政治学 増補版 (岩波現代文庫)

境界線の政治学 増補版 (岩波現代文庫)

 

 

境界線を議論するとは、「政治」を原理的に問うことに繋がります。それこそが、境界線を論じる意義になります。

 

「二つの政治観念」 

一般的に「政治」といえば、選挙や立法といった活動との関連において理解されることが多いと思います。しかし、こうした「合意論的な政治観」は、しばしばそれが前提としている境界線に無自覚になっている。それを鋭く指摘するのが、境界線を挟んだ内と外の抗争的関係を「政治」として理解する見方です。そこでは、合意形成による政治は、外との抗争で有利に立つためのものに過ぎないとされる。それを突き詰めたのがカール・シュミットで、単純化させて言えば、重要なのは良い合意に到達することではなく、外との抗争を首尾よく切り抜けるべく、時宜に応じて決断しておくことだとして、議会制民主主義を論難します。ここに、よく言われるように、合意と対立の「二つの政治観念」が浮上することになります。

 

しかし、後者の見方も、政治における境界線を万遍なく論じたものとはなりえません。後者の「対立論的政治観」は、対立関係を強調することで、暗黙の前提とされがちな境界線への無自覚さに反省を促すことになります。だがこれは、一つの境界線(多くは国境)を特権化し、その反面として、境界線内部(国家内)における亀裂の問題を矮小化しがちです。時にそれは、境界線内部における統一性、同質性の捏造を隠蔽しさえします。

 

「境界線」の相対化

したがって、「二つの政治観念」を指摘するだけでは、境界線を巡る諸問題を論じ尽くせないという訳です。こうして、何かの境界線を問い直すことが政治理論、政治の実践上の重要な課題として浮上することになります。当然、そのメインターゲットとなるのは国境という境界線であり、国家という存在です。

 

そこで、別の境界線を持ち出し、それをテコとして、国家や国境を相対化しようとする試みが登場することになります。マルクス主義が、階級という別の境界線を強調して、労働者階級の国境横断的な連帯を説くのはその典型でしょう。

 

これに対し、そもそも別の境界線をもって、支配的な境界線を克服しようとする戦略がそもそも妥当なのかも微妙なところだとの立場もあるでしょう。この場合にしばしば持ち出されるのが、「市場」を中心に据えるような見方です。しかしこれも、市場は国家の提供する法秩序をもって始めてその機能を十全に果たせるようになった、といった指摘によってその限界が論じられます。これは忘れがちですが重要な指摘でしょう。ロドリック(Dani Rodrik)などは、「資本主義の歴史とは、この教訓[市場は政府の提供する制度を欠いては機能しない]を何度も学ぶプロセスだ」(ダニ・ロドリック『グローバリゼーション・パラドックス 世界経済の未来を決める三つの道』273頁)とさえ言います。

グローバリゼーション・パラドクス: 世界経済の未来を決める三つの道

グローバリゼーション・パラドクス: 世界経済の未来を決める三つの道

 

 

その政治論上の「親戚」に当たるのは個人基底的な自由主義になるでしょうか。個人も国家を相対化するために呼び出されますが、「親戚」たる市場と同じように、個人と国家の関係性は一筋縄ではいかないようになっています。一方で、世界市民主義的な考え方などは、国家に分割されてしまっている個々人の、全世界的連帯を想起させます。他方で、ロックなどを引くまでもなく、国家は個人の人格や財産の権利保障のために必要とされてきた存在です。市場が政府の提供する法や秩序に依拠しているのとパラレルをなすように、個人の権利や自由の保障には、政府の機能が欠かせない訳です。多くの場合に両者は相関し、権利の十全な保障は、いわゆる大きな政府を要求することになります。しかしそうした政府の存在こそが、個人への国家介入に対する反発という情念を生み出し、国家を相対化する試みを呼び出すことになる...という皮肉がある訳です。

 

個人と国家

ここで面白いのが、「個人」も境界線と無縁ではいられない、むしろその源泉となりうるという指摘です。身体の輪郭をその境界線として、身体に対する他者からの侵害を排除しようとする。その延長線上に、身体の働きかけ、すなわち労働の対象がその人の私的所有物となるという議論が展開されることになります。そして、これらの保護を確実にするために、政府が正当化されます。近代において、個人主義と政府機能の強化は、たしかに手を携えて発展してきたのです。ここに、「身体」に規定される「個人」にとっての「境界線」が、「国境」に規定される「国家」にとっての「境界線」を生み出すことになったという連関が見出せるでしょう。近代的な人格概念や私的所有権が存続する限り、あまり事態は変わり得ないのかもしれません。逆に言えば、それが変われば...というと別の方向性に行きそうなのでこの辺にしときましょう。

 

これを踏まえると、個人を強調することで国家を相対化させようとする戦術の限界も浮かんでくる筈です。個人の権利や自由をその侵害者から保護するためには、そのための制度を提供する主体が必要になります。国家をどれほど相対化させても、そうした制度の需要が変化しない限りは、代替の国家的なものが必要になるでしょう。それが不要だと論じれるのは、国家こそが諸悪、人間の負の側面の源泉で、国家さえなければ人間は悪をなさず自然に秩序を形成できると主張する無政府論者だけです。

 

境界線との付き合い方

結局、本書全体で仄めかされているように、境界線と縁をきっぱり切ってしまうという方向性は難しそうです。境界を引くことから完全には逃れられないのであれば、重要になってくるのは境界線との付き合い方ということになります。境界線を引き、「内部」を画定するという行為には必然的に「排除」が伴うことに自覚的になること、既存の境界線もしばしば偶然の産物でしかないことがありうるので、それを絶対化、固定化しないように努めることが主張されます。こうして、境界線の恣意性に対する批判を、境界線の一方的解体に向けるのではなく、その相対化や柔軟化に繋げるという積極的役割を期待する方向性が見出される訳です。

 

後半の方では、ベンヤミン、シュミット、アガンベン、デリダなどの様々な議論を引きながら政治の原理的な問題を論じていくので面白く読めるのが多かったです(ここらへんを紹介しようとするときりがないのでこの辺で)。時にはこうした類を読むのも刺激になりますね。

  

小原嘉明『入門 進化生物学』

中公新書での進化論に関する入門書です。

 

入門! 進化生物学 - ダーウィンからDNAが拓く新世界へ (中公新書)

入門! 進化生物学 - ダーウィンからDNAが拓く新世界へ (中公新書)

 

 

例が多く、かつ取り上げられるそれぞれの生物がとてもユニークなので驚かされました。入門書としてはとても良い出来ではないでしょうか。

 

 利己性と利他性

買うときに気になっていたのは、第6章の動物の利他性 / 利己性に関する章です。

 

半世紀ほど前までは、動物の行動原理は利他的、すなわち同種集団全体の利益のために行動すると理解されてきたらしいですが、進化論と相容れないという点から、利己的動物観が通説的見解になったそうです。

 

すると、外観上は利他的行動に見えるような行動をどう整合的に解釈すればよいのかが問題になります。例えば、ナミチスイコウモリは毎晩餌を取りに出るものの、その成功率はそれほど高くない。ただそうした場合、餌取に成功した個体が、失敗した個体に対して餌を融通するという奇特なことが行われる。しかし、これは利己的動物観に合致しないように見えてしまう...。

 

これは、「互恵的利他行動」という行動形式で説明されます。研究によれば、餌を融通された場合には、後日に立場が逆転した場合に餌を融通し返すという行為が行われるとのこと。つまり、時間軸を広く取ってみれば、両個体の関係性は互恵的になっているという訳です。この背景には、融通制度がある方が、種集団全体で見たときに生存率が高まるという事情があったりします。(なし:24、あり82%)

 

ただ、こうした行動が発現するには一定の条件が必要になるようです。ここまでの説明からも明らかなように、互恵的行動が行われるには、ある程度の期間以上、集団で行動するようなケースに限られ、やはり血縁関係がある場合が多いとのこと。こうして、全体として、長期で見た場合には種の存続に合理的な行動として言うことができる訳です。

 

 

ところで、ここらへんの生物学的知見って、人間にどの程度あてはまるんでしょうね。(実のところそこのヒントを知りたくて本書に手を伸ばしました)

 

カール・シュミット『政治的なものの概念』その2

前回から引き続き『政治的なものの概念』を読んでいきます。

 

nk-400.hatenablog.com

 

55頁からは再び国際政治の話に戻っていきます。これまで見てきたように、シュミットにとって、政治的なものとは、友敵とも形容される、決定的な対立です。この対立の決定性は、それ相応の対応を要求することになります。それが至高権力たる国家の主権です。国家の任務は、したがって、敵を正しく認識し、敵との対立に首尾よく対応することに他なりません。

 

「政治的なもの」と普遍的正義 

では、戦争に正義を持ち込むような試みは、こうした観点からしてどう評価されるのか。それに対する答えは明白です。

...公正な理由に基づいてのみ戦争せよと要求することは、つまりは、それが、ただ現実の敵に対してのみ戦争をせよという意味のことであるとすれば、まったく自明のことなのであるし、さもなければ、その背後には、交戦権の行使を他者の手に委ね、正義の規範を発見しておいて、その内容や適用は個々の事例において、国家自身ではなく、なんらかの第三者が決定する、すなわち、第三者が敵を定めるようにしようという政治的要求がひそんでいるのである。(55頁)

前回は飛ばしましたが、先にクラウゼヴィッツに言及した箇所で、戦争に至るには、それに先行して誰が敵なのか、に関する「政治的」決定が先行していると述べています。(27頁)正義の規範に照らして敵の認定を第三者が左右するような事態は、これに違背するという訳です。シュミットのに言わせれば、友と敵の「区別をする能力ないしは意志を欠くとき、国民は政治的な存在であることをやめてしまう」ようなものだと。(55頁)

 

「保護」と「服従」の連鎖 

次いで、この友敵の区別、政治的なものは「宿命」であって逃れられないということが述べられます。個人がそうした態度を取る場合でも然り、とシュミットは論じます。

ある国家の市民たちが、自分たちは、個人的には、いかなる敵も持たないと主張することは、この問題となんのかかわりもない。なぜなら、個人には、政治上の敵がいないからである。このような宣言によって表明されうるのは、たかだが、自分が生活上所属している政治的な全集団から離脱して、ただ個人としてのみ生きたいと願う、ということなのである。(59頁)

個人が一方的に敵から逃れようとしても、世界から政治が消滅する、世界が非政治化する訳ではない。このときその個人が、「政治的生存の労苦と危険とを恐れる」のであれば、それを肩代わりし保護する者が現れる、とシュミットは言います。ここに国家、主権の原型があるようです。すなわち、

後者[肩代わりする者]は、前者[政治的生存の労苦と危険とを恐れる者]の「外敵に対する保護」を引き受け、それとともに政治的支配をも引き受ける。このばあいには、保護と服従という永遠の連関によって、保護者が敵を定めることになるのである。(59頁)

シュミット自身の注によれば、こうした「保護と服従の連鎖」、「保護するゆえに拘束す」とは、「国家にとっての、われ思うゆえにわれ在り」に相当する「根本命題」であるとのこと。反対に、これを「体系的に自覚しない国家理論は、不十分な断片にすぎない」と切り捨てます。(60頁)注にもあるように、これはシュミットがホッブズの『リヴァイアサン』から読み取った政治の原理であることも付言されています。但し、厳密には常に全面的拘束を要求するというよりも、保護を提供する度合いに応じて服従をという比例関係を念頭に置いているようです。シュミットはホッブズ評として『リヴァイアサン』なる論考を出していますが、そこではこんなことが述べられています。

...国家権力の全体性は常に国民の安全への全面的責任とみあったものであり、この神が求める全抵抗権の放棄と服従は、その保障する現実的保護の相関物に他ならない...保護の終わるところ、服従義務も終わり、個人はその自然の自由を回復する。この「保護と服従の相関」こそホッブズ国家論の支点である。(カール・シュミット『リヴァイアサン』15頁)

(Amazonにシュミットの『リヴァイアサン』(訳は長尾龍一先生)はないのですが、著作集の第2巻にも収録されています)

これはホッブズ=全体主義国家論者という見方を論駁する過程の一文です。シュミットの言わんとしていることは分かりやすく、ホッブズが求めているのは「相関」であって常に絶対的服従を、という訳ではない、それ故に全体主義と論難するのは見当違いだ、ということでしょうか。(これがどの程度妥当なホッブズ解釈なのかは判断しかねますが...)こうしたホッブズ擁護の背景にあるのは、自然状態への怖れ、そこから逃れるための保護、そして保護を全うするための強い主権とそれへの服従、という形のホッブズの論理をシュミットが概ね共有しているということです。このことは、『リヴァイアサン』の締めに、ホッブズへの賛辞を寄せる箇所からしても明らかでしょう。

彼が現在の我々にもたらしうる洞察と寄与は何か。それはあらゆる種類の間接権力に対する闘争である...[ホッブズは、リヴァイアサンの比喩が一人歩きし、「全体主義」と誤解され、その思想は甚だ不遇であったが]今こそ我々は彼の論争の力をありのままに理解し、その思惟の内的誠実を理解する。そして人間の実存的不安を恐れることなくつきつめた不撓の精神と、間接的権力の曖昧な使い分けに対する真の戦士の姿に愛情を捧げる。彼こそ我々に偉大な政治的熟達を教える真の教師である。(129頁)

実存的不安とは、存在が脅かされるような不安、いわゆる「万人の万人に対する闘い」の自然状態のこと。そこでは、「人間の生活は孤独で貧しく、汚らしく、残忍で、しかも短い」。(トマス・ホッブズ『世界の名著 リヴァイアサン』157頁)「間接的権力」とは封建制的領主や教会を指します。シュミットによれば、ホッブズは、こうした「間接的権力」を有する勢力こそ自然状態、無秩序の原因であると見ており、それを抑えるためにこそ主権の絶対性を説いたとのこと。すなわち、

彼の問題は、封建的・盗族的・教会的抵抗権のもたらす無政府状態と、そこから常に生ずる内乱を、国家によって克服すること、教会その他の「間接」権力の支配権の主張のもたらす多元性に対し、一義的・実効的な保護能力ある権力と、予測可能に機能する合法性の体系の合理的統一性を対置させようとするところにあった。このような合理的国家権力の本質的要素は、何よりも政治的危険を完全に引き受け、国民の保護と安全にこのような責任を負うことである。(112頁)

 

第六章

話を戻して第六章です。ここでは「政治的なるもの」のシュミット的定義の国際政治的帰結が続けられます。友敵概念からは、論理必然的に、「諸国家世界の多元論」が生まれます。裏を返せば、「全地球・全人類を包括する世界「国家」などはありえない」(61頁)、言うまでもなく、「国家」は「敵」の存在可能性を前提とするものだからです。

 

ここからさらに裏を返して、では人類を自称する政治集団とは何なのか、と続けられます。少し長いですが再び引用です。

一国家が、人類の名においてみずからの政治的な敵と戦うのは、人類の戦争であるのではなく、特定の一国家が、その戦争相手に対し普遍的概念を占取しようとし、自らを普遍的概念と同一化しようとする戦争なのであって、平和・正義・進歩・文明などを、みずからの手に取り込もうとして、これらを敵の手から剥奪し、それらの概念を利用するのと似ている。「人類」は、帝国主義的膨張にとって、とくに有用なイデオロギー的道具であり、その人倫的・人道的形態において、経済的帝国主義のための特別の器である。この点に関しては、プルードンの表現になる次の言葉が、当然の修正を加えて当てはまる。すなわち、人類を口にする者は、欺こうとする者である。「人類」の名を掲げ、人間性を引き合いに出し、この語を私物化すること、これらはすべて、苟もかかる高尚な名目はなんらかの帰結をともなわずにはかかげえないのであるからして、敵から人間としての性質を剥奪し、敵を非合法・非人間と宣告し、それによって戦争を、極端に非人間的なものにまで押し進めようという、恐ろしい主張を表明するものに他ならない。(63頁)

とても左派っぽいことを言い出します。正戦、無差別戦争観から差別的戦争観への転換は、"正しい"側の暴力行為を無制限的に正当化してしまうという危惧は多く表明されますが、それと似た指摘がされます。現代的に言えば、テロリストに対する扱いとかが該当するでしょうか。ここら辺は戦後のシュミットの思想に連なるところで、大竹弘二先生の博士論文をベースにした著作で『正戦と内戦 カール・シュミットの国際秩序思想』という大著がありますが、そこらへんに詳しそうです。(現在読み進め中)

正戦と内戦 カール・シュミットの国際秩序思想

正戦と内戦 カール・シュミットの国際秩序思想

 

 

第七章

進んで第七章では、国際政治から再び離れ、人間性と政治理論の関係を論じます。シュミットは、「真の政治理論とは、すべて人間を悪なるもの」と前提する」(74頁)と言い切ります。ところで丸山眞男はこの箇所も『現代政治の思想と行動』に収録された論文「人間と政治」で引用しています。但し、その理解の仕方は微妙です。シュミットと同様、多くの政治理論では性悪説的人間観が支配的であった、ということを述べてから次のように言い始めます。

しかしそういうことを別にしても、政治が前提する性悪という意味をもっと正しく理解しなければならない。性悪というのは、厳密にいうと正確な表現でないので、じつはシュミット自身もいっているように、人間が問題的な存在だということにほかならぬ...もし人間がいかなる状況でも必ず「悪い」行動をとると決まっているとすれば、むしろ事は簡単で本来の政治の介入する余地はない。善い方にも悪い方にも転び、状況によって天使になったり悪魔になったりするところに、技術(アート)としての政治が発生する余地があるわけである。(丸山眞男「人間と政治」『現代政治の思想と行動』364頁) 

ちなみに先の74頁の引用は、「すなわち問題をはらまぬものとしてでは決してなく、「危険な」かつどうてきな存在としてみなすものである、という奇妙な、そして多くの人々に必ずや不安を覚えさせる確認なのである」と続きます。果たして丸山的理解の妥当性は...というところですが、これはシュミットの他の文献にも照らしてみる必要性がでてきそうなカンジです...丸山眞男は、363頁で先にシュミットの「真の政治理論とは、すべて人間を悪なるもの」も引用しており、こうは言ってるけど実のところ正確には「問題的存在」だよね...と「人間を悪なるもの」と「問題的そんざい」を区別して(丸山は)理解しているようですが、シュミットを読む限りは特段の区別をしていない様子です。(細かいことに気を取られすぎかもしれません..) 

 

ただ、シュミットの人間観は経験的観察に根ざしたものかというと微妙なようです。むしろ政治学の前提として措くといった形です。

政治的なものの領域は、結局のところ、敵の現実的可能性によって規定されるのであるから、政治的な観念ないし思考過程は、人間学的「楽観論」を出発点としたのでは、具合が悪い。そんなことをすれば、それらは、敵の可能性を捨て去るとともに、すべての特殊的に政治的な帰結をも捨て去ることになるであろう。(78頁)

しかし、こうした「楽観論」はなかなかしぶとい。というのも、「一般に人間は、少なくとも調子がまずまずであるか、むしろ好調であるかぎりは、脅かされることのない平穏という幻想を愛するものである」ため、人間本性の悪性を説くような「「悲観論者」を許容しない」からである。(81頁)

 

「悲観論者」を批判し、人間学的「楽観論」に逃げ込むような態度は、それゆえに、政治的なものを回避する傾向に結びつく。シュミットによれば、そこで動員されるので厄介なのが、法や平和です。

最悪の混乱が生じるのは、法とか平和とかの概念が、このように政治的に利用されるとき、つまり、明解な政治的思考を妨げ、自己の政治的努力を合法化し、相手を無資格・不道徳の立場におとしめるために利用されるときである...法や道徳を、このように利用することの政治的意義に注目し、そしてとくに、法「なるもの」の「支配」とか、さらには至上性とかいう言い方に対して、常に立ち入った疑問を提起することは、政治的思考の立場からすれば、自明のことであって、不法でも不道徳でもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

カール・シュミット『政治的なものの概念』その1

カール・シュミットの数ある著作の中でも、恐らく最も有名な『政治的なものの概念』です。

 

政治的なものの概念

政治的なものの概念

 

 

全体としては、政治的なもの=「友 / 敵」の区別という彼の有名な考え方を提示するとともに、それを前提として例えば国際政治などはどう考えられるか、と議論を派生させていくといった構成になっています。

 

全体は8章で構成されています。著作集の方では各章の章題は与えられていましたが、未来社の方では記載がありません(理由は不明)。

 

第一章では、政治とは何か、政治的なものを定義するのに国家を参照してその本質を定義するのは困難だとの認識が示されます。しばしば国家と政治は同一視されてきたが、そこからは不毛な循環論法しか生まれなかったし、現代にあっては、国家と政治の等置をもはや維持しえない。「国家と社会とが滲透しあうのに応じて」、国家=政治的な領域、社会=非政治的な領域、「中立的な」領域という峻別が成り立たなくなると言います。こうして、

いかなる領域に対しても無関心でなく、潜在的には、すべての領域を掌握する、国家と社会との同一性としての全体国家が登場する。そこでは、したがって、あらゆることが、少なくとも可能性としては、政治的なのであり、国家を引き合いに出すことではもはや、「政治的なもの」の特殊な区別指標を基礎づけることは不可能となるのである。(10頁)

こうして、国家に代わる、政治的なるもの、その領域を画するような別の区別指標が必要となる訳です。(そういえば、社会に対して国家が(政治的に)中立的というこの理解は、丸山眞男が「超国家主義の論理と心理」という論文の中で、戦前日本との対比のために参照しています)

 

第二章、第三章では、前章を受けて、「友 / 敵」という区別が「政治的なるもの」の指標として提示されます。

政治的な行動や動機の基因と考えられる、特殊政治的な区別とは、友と敵という区別である。(15頁)

シュミットは、政治、道徳、美などの領域を規定するのは各々の領域に固有の「区別」であり、それは、道徳にあっては善悪、美にあっては美醜であるとします。政治では、それに該当する区別とは友と敵の区別だと断じているのです。

 

シュミットによれば、ここにいう敵とは「他者、異質者に他ならず、その本質は、とくに強い意味で、存在的に、他者・異質者である」とのこと。敵に対して友を対置することからも明らかなように、万人にとって万人が敵、という訳ではないようです。

敵とはただ少なくとも、ときとして、すなわち現実的可能性として、抗争している人間の総体...なのである。敵には公的な敵しかいない。(19頁)

他方で、友についての詳細な説明は与えられません。政治にとって重要なのは二分法の区別なので、敵を判別すれば、自ずから誰が友かも明らかになると理解していたのでしょうか。

 

こうした思考方法を反映してか、友と敵の区別の概念を精緻化するのにも、それ自体を説明するのではなく、「〜ではない」という形でこれを規定していきます。友敵概念は、隠喩や象徴ではない、それは規範的な対立ではなく「純粋に精神的な」対立でもない、競争相手とか相手一般ではない...これを幾頁か続けた後、こんなことを言い出します。

政治的な対立は、もっとも強度な、もっとも極端な対立である。いかなる具体的な対立も、それが極点としての友・敵結束に近づくほど、ますます政治的なものとなるのである。(20頁)

この点は少し紛らわしい(というか理解を混乱させる)感じです。一方で先に、政治にとって固有なもの、従って政治の領域をその他から分けるメルクマールは友と敵の区別と言っていました。これに対して、ここでは、対立の強度が上がれば、より政治的となるとされています。逆に言えば、対立が緩やかであれば政治的でなくなる...とも理解してよいのでしょうか。友敵は政治固有の領域を示し、他の領域と区別される...と理解できるのかと思いきや、どうもそうではなく、道徳や経済など様々な領域での対立が極端になれば政治的な対立に転化する、と示唆しているようです。すなわち、政治は他と並ぶ固有な領域ではなく、領域横断的なもの、ということでしょうか。(ここは第四章でも見ますが、後者の理解が妥当なのでしょう)実のところ、この「強度」としての政治的なものの理解は曰く付きの箇所らしいです。なんでも国際政治学者で、いわゆる「リアリズム」の創始者として知られるハンス・モーゲンソーからの剽窃ではないか、と言われているとのこと。モーゲンソーにおける「政治的なもの」をシュミットとの対比で考えると紛らわしさが少し整理されると思います。(なお、この点に関しては、宮下豊さんの『ハンス・モーゲンソーの国際政治思想』にも詳しいです。同書はモーゲンソーをリアリズムの創始者とする通説的理解に異を唱えるものでとても面白く読めます(現在進行形で読書中なので読み終わったらまた別に取り上げます..))

 

話を戻しますが、ここまで考えられてきた友 / 敵の主たる単位は国家です。以降はこれを前提に国内政治、国際政治がどう考えられるかといった話があっちへこっちへと飛びながら続きます。(なので要約が難しい)

 

まず国内について。先に述べたように、友 / 敵の主たる単位はあくまで国家ですが、このことは「政治的なもの」が国家の独占物ということを意味しない、つまり、国家内部に「政治的なもの」が生じ得ないという訳ではありません。しかし、それはあくまで二次的なものであって、第一次的な政治的な区別は国家をその単位とするらしいです。

国家は組織された政治単位として、全体としては、それ自身にとって、友・敵を区別するが、その国家の内部では、これに加えて、第一義的に政治的な区別のほかに、しかもこの区別に守られて、「政治的」という数多くの二次的な概念が生じてくる。(21頁)

ここで、冒頭に言及した「国家=政治的な領域、社会=非政治的な領域」という等式は再度否定されます。国内にあっても、「国家というあらゆる対立を包み込む政治的統一の存在によって相対化されてはいる」という留保が付されるものの、なおも「対立と敵対とが、つねに、政治的なものという概念を構成」するとされます。(21頁)

 

国際政治についても様々なことが述べられています。例えば、「友敵」は中立という国家の立場と相容れないように見えるが、実のところ、中立という概念は、友敵の対立という可能性を前提としてこそ成り立っている。裏を返せば、「友敵」の対立がまったく消滅してしまえば中立もない。友敵の対立の極限化したものが戦争であるが、これは例外的にしか生じ得ない。しかしそれは、友敵という対立が本質的でないという訳ではない。なぜなら、(シュミットの『政治神学』などでも示唆されているように)「例外事態こそが、とくに決定的な、ことの核心を明らかにする意義をもつ」のであるから。(30頁)

 

第四章では、20頁からの引用、「政治的な対立は、もっとも強度な、もっとも極端な対立である」という側面が掘り下げられています。ここでは、領域横断的な「政治的なもの」という理解が明示的に示されます。

いかなる宗教的・道徳的・経済的・人種的その他の対立も、それが実際上、人間を友・敵の両グループに分けてしまうほどに強力であるばあいには、政治的対立に転化してしまう。(33頁)

政治的なものは、人間生活の実にさまざまな分野から、つまり宗教的・経済的・道徳的その他の諸対立から、その力をうけとることができる。それは、なんらそれ独自の領域をあらわすものでなく、ただ人間の連合または分離の強度をあらわすにすぎず...(35頁)

どうやら後者の理解(政治は他と並ぶ固有な領域ではなく、領域横断的なもの)が妥当な様子です。さて、こうして政治はあらゆる対立、敵対のなかでも最高強度、決定的なものとして理解されます。そしてこの「決定的な」対立は、それに対処するために強い力を要求することとなります。それこそが「主権」です。

いずれにせよ、重大事態をふまえての結束だけが、政治的なのである。その結束は、それゆえ、つねに決定的な人間の結束であるし、したがって、政治的単位は、およそそれが存在するかぎりはつねに、決定的単位なのであって、かつ例外的事態をも含め、決定的事態についての決定権を、概念上必然的につねに握っていなくてはならない、という意味において「主権をもつ」単位なのである。(36頁)

ここにきて、(やや強引な図式ですが)政治=決定的な対立=決定的な対処能力を要求=国家主権という繋がりが浮かび上がってきます。友敵の対立の主たる単位が国家であるのも、主権という至高権力が国家に付与されているからでしょう。こうした理解からして、国家を国内諸団体の一つに解消し、その特殊性を失わしめるラスキの多元論などに対して論駁していくのも必然になるのです。

 

第五章では主権の決定的性格をより具体的に論じていきます。対外的にはそれは、交戦権という形で現れます。

決定的な政治的単位としての国家は、途方もない権限を一手に集中している。すなわち、戦争を遂行し、かつそれによって公然と人間の生命を意のままにする可能性である...それは、自国民に対しては死の覚悟を、また殺人の覚悟を要求するとともに、敵方に立つ人々を殺戮するという、二重の可能性を意味する。(48頁)

対内的には、国内の平和を確立し、それを維持するという義務とそのための権能が国家に帰属する、という形でその決定性が論じられます。

ところで、正常な国家の機能は、なによりも、国家およびその領土の内部において、完全な平和をもたらし、「平静・安全・秩序」を確立し、それによって正常な状態を作り出すことなのであって...(48頁)

この後も、主権の至高性の論証が続きます。例えば、宗教団体もその成員に対して死をも要求することはあります。ただそれは、シュミットに言わせれば別物です。というのも、そうした殉教死は成員自身の魂の救済に向けられた死であって、主権が要求しうる死(自身のための死ではない)とは自ずから異なるからです。

 

55頁からは再び対外関係、具体的には正戦(just war)の話に戻ります。ここからが個人的には面白いところなのですが、これは次章に繋がっていくので、ひとまずここで稿を区切ります。続きは次回...

 

社会科学者としての高坂正堯

『高坂正堯と戦後日本』を某古本屋で偶然見つけてから、これを片手に高坂正堯を改めて読み直しています。

  

高坂正堯と戦後日本

高坂正堯と戦後日本

 

 

編集の五百旗頭先生、中西先生はじめ、細谷先生や待鳥先生などなど...尊敬する諸先生方が、各章それぞれの視角で高坂正堯を分析しており、その奥深さを再認識させてくれるような本です。

 

どれも読ませる論評なのですが、特に面白く読めたのは、待鳥聡史先生による「社会科学者としての高坂正堯 1960年代におけるアメリカ学派」(第三章)と、中西寛先生の「権力政治のアンチノミー 高坂正堯の日本外交論」(第七章)です。取り敢えず今日は前者に焦点を当ててみます。

 

「社会科学者としての高坂正堯 1960年代におけるアメリカ学派」

この論評では、1960年代のハーヴァード大学への留学経験を念頭に、高坂がアメリカで何を得たのか、そしてそれが前後の年代における仕事とどういった関係にあったのかが論じられています。

 

(短い論評なので内容の詳細は省きますが)重要な指摘は、『国際政治』に代表されるような理論的著作群、「宰相吉田茂論」といった実証的著作群、『海洋国家日本の構想』などの政策論的著作群の三つに大別される、一見するとまとまりのない60年代の業績が、実は相互に結びついているという指摘でしょう。そして、70年代以降は政策論的な色が強い著作や外交評論が前面に出てくるが、その基礎をなしたのは理論的著作や実証分析であり、これこそが高坂をして、論壇においても旧来型の教養文化人や現代的なコメンテーターとは異なる存在ならしめていたのであり、また同時に、高坂の多面的な活動を時間軸上で整合的に理解する鍵でもあるとしています。

 

この指摘はとても興味深い指摘だと思います。一般に(僕自身含めて)人文的、歴史的素養に支えられた(国際)政治学という方向性に惹かれて高坂正堯へ関心を寄せる風潮があるような気がしますが、そこで無意識ながら前提としてされているのは、社会科学的アプローチと人文的・歴史学的なアプローチの両立は難しい、二者択一であろうという想定だと思います。しかし、待鳥先生の高坂論が示唆しているのは、こうした形での高坂正堯への接近がむしろ高坂理解を一面的にしてしまうかもしれないということです。そして、それを踏まえれば、高坂から真に汲み取るべきは、人文的・歴史学的素養と社会科学的な思考法をいかにして有機的に接合し、(時事評論なり実証分析なりどのような形をとるにせよ)国際政治に対する豊かな見方に繋げるか、という点なのかもしれません。もちろん両者を二者択一でなく相互補完的にといった議論は随分前からあると思いますが、その実践の試みはあまり思い浮かばない気がします。そういった観点からまた高坂を読み直してみるのも面白いかもしれません。

 

少し不満があるとすれば、「科学者」としての高坂正堯に焦点を当てているが、方法論的な側面での影響の指摘に偏っているように見える点などでしょうか。ただ、紙幅的にもそれを望むのは少し的外れな気もしますし、いずれにしても、とても面白く読める論評でした。

 

追記(1/20)

最近、大矢根先生の編集で勁草書房から『日本の国際関係論 理論の輸入と独創の間』が発売されたようですね。目次しか見ていないのですが、ここで取り上げた問題意識とも絡みそう(かつ高坂正堯も取り上げられている)なので期待大です。