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カール・シュミット『政治的なものの概念』その1

カール・シュミットの数ある著作の中でも、恐らく最も有名な『政治的なものの概念』です。

 

政治的なものの概念

政治的なものの概念

 

 

全体としては、政治的なもの=「友 / 敵」の区別という彼の有名な考え方を提示するとともに、それを前提として例えば国際政治などはどう考えられるか、と議論を派生させていくといった構成になっています。

 

全体は8章で構成されています。著作集の方では各章の章題は与えられていましたが、未来社の方では記載がありません(理由は不明)。

 

第一章では、政治とは何か、政治的なものを定義するのに国家を参照してその本質を定義するのは困難だとの認識が示されます。しばしば国家と政治は同一視されてきたが、そこからは不毛な循環論法しか生まれなかったし、現代にあっては、国家と政治の等置をもはや維持しえない。「国家と社会とが滲透しあうのに応じて」、国家=政治的な領域、社会=非政治的な領域、「中立的な」領域という峻別が成り立たなくなると言います。こうして、

いかなる領域に対しても無関心でなく、潜在的には、すべての領域を掌握する、国家と社会との同一性としての全体国家が登場する。そこでは、したがって、あらゆることが、少なくとも可能性としては、政治的なのであり、国家を引き合いに出すことではもはや、「政治的なもの」の特殊な区別指標を基礎づけることは不可能となるのである。(10頁)

こうして、国家に代わる、政治的なるもの、その領域を画するような別の区別指標が必要となる訳です。(そういえば、社会に対して国家が(政治的に)中立的というこの理解は、丸山眞男が「超国家主義の論理と心理」という論文の中で、戦前日本との対比のために参照しています)

 

第二章、第三章では、前章を受けて、「友 / 敵」という区別が「政治的なるもの」の指標として提示されます。

政治的な行動や動機の基因と考えられる、特殊政治的な区別とは、友と敵という区別である。(15頁)

シュミットは、政治、道徳、美などの領域を規定するのは各々の領域に固有の「区別」であり、それは、道徳にあっては善悪、美にあっては美醜であるとします。政治では、それに該当する区別とは友と敵の区別だと断じているのです。

 

シュミットによれば、ここにいう敵とは「他者、異質者に他ならず、その本質は、とくに強い意味で、存在的に、他者・異質者である」とのこと。敵に対して友を対置することからも明らかなように、万人にとって万人が敵、という訳ではないようです。

敵とはただ少なくとも、ときとして、すなわち現実的可能性として、抗争している人間の総体...なのである。敵には公的な敵しかいない。(19頁)

他方で、友についての詳細な説明は与えられません。政治にとって重要なのは二分法の区別なので、敵を判別すれば、自ずから誰が友かも明らかになると理解していたのでしょうか。

 

こうした思考方法を反映してか、友と敵の区別の概念を精緻化するのにも、それ自体を説明するのではなく、「〜ではない」という形でこれを規定していきます。友敵概念は、隠喩や象徴ではない、それは規範的な対立ではなく「純粋に精神的な」対立でもない、競争相手とか相手一般ではない...これを幾頁か続けた後、こんなことを言い出します。

政治的な対立は、もっとも強度な、もっとも極端な対立である。いかなる具体的な対立も、それが極点としての友・敵結束に近づくほど、ますます政治的なものとなるのである。(20頁)

この点は少し紛らわしい(というか理解を混乱させる)感じです。一方で先に、政治にとって固有なもの、従って政治の領域をその他から分けるメルクマールは友と敵の区別と言っていました。これに対して、ここでは、対立の強度が上がれば、より政治的となるとされています。逆に言えば、対立が緩やかであれば政治的でなくなる...とも理解してよいのでしょうか。友敵は政治固有の領域を示し、他の領域と区別される...と理解できるのかと思いきや、どうもそうではなく、道徳や経済など様々な領域での対立が極端になれば政治的な対立に転化する、と示唆しているようです。すなわち、政治は他と並ぶ固有な領域ではなく、領域横断的なもの、ということでしょうか。(ここは第四章でも見ますが、後者の理解が妥当なのでしょう)実のところ、この「強度」としての政治的なものの理解は曰く付きの箇所らしいです。なんでも国際政治学者で、いわゆる「リアリズム」の創始者として知られるハンス・モーゲンソーからの剽窃ではないか、と言われているとのこと。モーゲンソーにおける「政治的なもの」をシュミットとの対比で考えると紛らわしさが少し整理されると思います。(なお、この点に関しては、宮下豊さんの『ハンス・モーゲンソーの国際政治思想』にも詳しいです。同書はモーゲンソーをリアリズムの創始者とする通説的理解に異を唱えるものでとても面白く読めます(現在進行形で読書中なので読み終わったらまた別に取り上げます..))

 

話を戻しますが、ここまで考えられてきた友 / 敵の主たる単位は国家です。以降はこれを前提に国内政治、国際政治がどう考えられるかといった話があっちへこっちへと飛びながら続きます。(なので要約が難しい)

 

まず国内について。先に述べたように、友 / 敵の主たる単位はあくまで国家ですが、このことは「政治的なもの」が国家の独占物ということを意味しない、つまり、国家内部に「政治的なもの」が生じ得ないという訳ではありません。しかし、それはあくまで二次的なものであって、第一次的な政治的な区別は国家をその単位とするらしいです。

国家は組織された政治単位として、全体としては、それ自身にとって、友・敵を区別するが、その国家の内部では、これに加えて、第一義的に政治的な区別のほかに、しかもこの区別に守られて、「政治的」という数多くの二次的な概念が生じてくる。(21頁)

ここで、冒頭に言及した「国家=政治的な領域、社会=非政治的な領域」という等式は再度否定されます。国内にあっても、「国家というあらゆる対立を包み込む政治的統一の存在によって相対化されてはいる」という留保が付されるものの、なおも「対立と敵対とが、つねに、政治的なものという概念を構成」するとされます。(21頁)

 

国際政治についても様々なことが述べられています。例えば、「友敵」は中立という国家の立場と相容れないように見えるが、実のところ、中立という概念は、友敵の対立という可能性を前提としてこそ成り立っている。裏を返せば、「友敵」の対立がまったく消滅してしまえば中立もない。友敵の対立の極限化したものが戦争であるが、これは例外的にしか生じ得ない。しかしそれは、友敵という対立が本質的でないという訳ではない。なぜなら、(シュミットの『政治神学』などでも示唆されているように)「例外事態こそが、とくに決定的な、ことの核心を明らかにする意義をもつ」のであるから。(30頁)

 

第四章では、20頁からの引用、「政治的な対立は、もっとも強度な、もっとも極端な対立である」という側面が掘り下げられています。ここでは、領域横断的な「政治的なもの」という理解が明示的に示されます。

いかなる宗教的・道徳的・経済的・人種的その他の対立も、それが実際上、人間を友・敵の両グループに分けてしまうほどに強力であるばあいには、政治的対立に転化してしまう。(33頁)

政治的なものは、人間生活の実にさまざまな分野から、つまり宗教的・経済的・道徳的その他の諸対立から、その力をうけとることができる。それは、なんらそれ独自の領域をあらわすものでなく、ただ人間の連合または分離の強度をあらわすにすぎず...(35頁)

どうやら後者の理解(政治は他と並ぶ固有な領域ではなく、領域横断的なもの)が妥当な様子です。さて、こうして政治はあらゆる対立、敵対のなかでも最高強度、決定的なものとして理解されます。そしてこの「決定的な」対立は、それに対処するために強い力を要求することとなります。それこそが「主権」です。

いずれにせよ、重大事態をふまえての結束だけが、政治的なのである。その結束は、それゆえ、つねに決定的な人間の結束であるし、したがって、政治的単位は、およそそれが存在するかぎりはつねに、決定的単位なのであって、かつ例外的事態をも含め、決定的事態についての決定権を、概念上必然的につねに握っていなくてはならない、という意味において「主権をもつ」単位なのである。(36頁)

ここにきて、(やや強引な図式ですが)政治=決定的な対立=決定的な対処能力を要求=国家主権という繋がりが浮かび上がってきます。友敵の対立の主たる単位が国家であるのも、主権という至高権力が国家に付与されているからでしょう。こうした理解からして、国家を国内諸団体の一つに解消し、その特殊性を失わしめるラスキの多元論などに対して論駁していくのも必然になるのです。

 

第五章では主権の決定的性格をより具体的に論じていきます。対外的にはそれは、交戦権という形で現れます。

決定的な政治的単位としての国家は、途方もない権限を一手に集中している。すなわち、戦争を遂行し、かつそれによって公然と人間の生命を意のままにする可能性である...それは、自国民に対しては死の覚悟を、また殺人の覚悟を要求するとともに、敵方に立つ人々を殺戮するという、二重の可能性を意味する。(48頁)

対内的には、国内の平和を確立し、それを維持するという義務とそのための権能が国家に帰属する、という形でその決定性が論じられます。

ところで、正常な国家の機能は、なによりも、国家およびその領土の内部において、完全な平和をもたらし、「平静・安全・秩序」を確立し、それによって正常な状態を作り出すことなのであって...(48頁)

この後も、主権の至高性の論証が続きます。例えば、宗教団体もその成員に対して死をも要求することはあります。ただそれは、シュミットに言わせれば別物です。というのも、そうした殉教死は成員自身の魂の救済に向けられた死であって、主権が要求しうる死(自身のための死ではない)とは自ずから異なるからです。

 

55頁からは再び対外関係、具体的には正戦(just war)の話に戻ります。ここからが個人的には面白いところなのですが、これは次章に繋がっていくので、ひとまずここで稿を区切ります。続きは次回...