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カール・シュミット『政治的なものの概念』その2

前回から引き続き『政治的なものの概念』を読んでいきます。

 

nk-400.hatenablog.com

 

55頁からは再び国際政治の話に戻っていきます。これまで見てきたように、シュミットにとって、政治的なものとは、友敵とも形容される、決定的な対立です。この対立の決定性は、それ相応の対応を要求することになります。それが至高権力たる国家の主権です。国家の任務は、したがって、敵を正しく認識し、敵との対立に首尾よく対応することに他なりません。

 

「政治的なもの」と普遍的正義 

では、戦争に正義を持ち込むような試みは、こうした観点からしてどう評価されるのか。それに対する答えは明白です。

...公正な理由に基づいてのみ戦争せよと要求することは、つまりは、それが、ただ現実の敵に対してのみ戦争をせよという意味のことであるとすれば、まったく自明のことなのであるし、さもなければ、その背後には、交戦権の行使を他者の手に委ね、正義の規範を発見しておいて、その内容や適用は個々の事例において、国家自身ではなく、なんらかの第三者が決定する、すなわち、第三者が敵を定めるようにしようという政治的要求がひそんでいるのである。(55頁)

前回は飛ばしましたが、先にクラウゼヴィッツに言及した箇所で、戦争に至るには、それに先行して誰が敵なのか、に関する「政治的」決定が先行していると述べています。(27頁)正義の規範に照らして敵の認定を第三者が左右するような事態は、これに違背するという訳です。シュミットのに言わせれば、友と敵の「区別をする能力ないしは意志を欠くとき、国民は政治的な存在であることをやめてしまう」ようなものだと。(55頁)

 

「保護」と「服従」の連鎖 

次いで、この友敵の区別、政治的なものは「宿命」であって逃れられないということが述べられます。個人がそうした態度を取る場合でも然り、とシュミットは論じます。

ある国家の市民たちが、自分たちは、個人的には、いかなる敵も持たないと主張することは、この問題となんのかかわりもない。なぜなら、個人には、政治上の敵がいないからである。このような宣言によって表明されうるのは、たかだが、自分が生活上所属している政治的な全集団から離脱して、ただ個人としてのみ生きたいと願う、ということなのである。(59頁)

個人が一方的に敵から逃れようとしても、世界から政治が消滅する、世界が非政治化する訳ではない。このときその個人が、「政治的生存の労苦と危険とを恐れる」のであれば、それを肩代わりし保護する者が現れる、とシュミットは言います。ここに国家、主権の原型があるようです。すなわち、

後者[肩代わりする者]は、前者[政治的生存の労苦と危険とを恐れる者]の「外敵に対する保護」を引き受け、それとともに政治的支配をも引き受ける。このばあいには、保護と服従という永遠の連関によって、保護者が敵を定めることになるのである。(59頁)

シュミット自身の注によれば、こうした「保護と服従の連鎖」、「保護するゆえに拘束す」とは、「国家にとっての、われ思うゆえにわれ在り」に相当する「根本命題」であるとのこと。反対に、これを「体系的に自覚しない国家理論は、不十分な断片にすぎない」と切り捨てます。(60頁)注にもあるように、これはシュミットがホッブズの『リヴァイアサン』から読み取った政治の原理であることも付言されています。但し、厳密には常に全面的拘束を要求するというよりも、保護を提供する度合いに応じて服従をという比例関係を念頭に置いているようです。シュミットはホッブズ評として『リヴァイアサン』なる論考を出していますが、そこではこんなことが述べられています。

...国家権力の全体性は常に国民の安全への全面的責任とみあったものであり、この神が求める全抵抗権の放棄と服従は、その保障する現実的保護の相関物に他ならない...保護の終わるところ、服従義務も終わり、個人はその自然の自由を回復する。この「保護と服従の相関」こそホッブズ国家論の支点である。(カール・シュミット『リヴァイアサン』15頁)

(Amazonにシュミットの『リヴァイアサン』(訳は長尾龍一先生)はないのですが、著作集の第2巻にも収録されています)

これはホッブズ=全体主義国家論者という見方を論駁する過程の一文です。シュミットの言わんとしていることは分かりやすく、ホッブズが求めているのは「相関」であって常に絶対的服従を、という訳ではない、それ故に全体主義と論難するのは見当違いだ、ということでしょうか。(これがどの程度妥当なホッブズ解釈なのかは判断しかねますが...)こうしたホッブズ擁護の背景にあるのは、自然状態への怖れ、そこから逃れるための保護、そして保護を全うするための強い主権とそれへの服従、という形のホッブズの論理をシュミットが概ね共有しているということです。このことは、『リヴァイアサン』の締めに、ホッブズへの賛辞を寄せる箇所からしても明らかでしょう。

彼が現在の我々にもたらしうる洞察と寄与は何か。それはあらゆる種類の間接権力に対する闘争である...[ホッブズは、リヴァイアサンの比喩が一人歩きし、「全体主義」と誤解され、その思想は甚だ不遇であったが]今こそ我々は彼の論争の力をありのままに理解し、その思惟の内的誠実を理解する。そして人間の実存的不安を恐れることなくつきつめた不撓の精神と、間接的権力の曖昧な使い分けに対する真の戦士の姿に愛情を捧げる。彼こそ我々に偉大な政治的熟達を教える真の教師である。(129頁)

実存的不安とは、存在が脅かされるような不安、いわゆる「万人の万人に対する闘い」の自然状態のこと。そこでは、「人間の生活は孤独で貧しく、汚らしく、残忍で、しかも短い」。(トマス・ホッブズ『世界の名著 リヴァイアサン』157頁)「間接的権力」とは封建制的領主や教会を指します。シュミットによれば、ホッブズは、こうした「間接的権力」を有する勢力こそ自然状態、無秩序の原因であると見ており、それを抑えるためにこそ主権の絶対性を説いたとのこと。すなわち、

彼の問題は、封建的・盗族的・教会的抵抗権のもたらす無政府状態と、そこから常に生ずる内乱を、国家によって克服すること、教会その他の「間接」権力の支配権の主張のもたらす多元性に対し、一義的・実効的な保護能力ある権力と、予測可能に機能する合法性の体系の合理的統一性を対置させようとするところにあった。このような合理的国家権力の本質的要素は、何よりも政治的危険を完全に引き受け、国民の保護と安全にこのような責任を負うことである。(112頁)

 

第六章

話を戻して第六章です。ここでは「政治的なるもの」のシュミット的定義の国際政治的帰結が続けられます。友敵概念からは、論理必然的に、「諸国家世界の多元論」が生まれます。裏を返せば、「全地球・全人類を包括する世界「国家」などはありえない」(61頁)、言うまでもなく、「国家」は「敵」の存在可能性を前提とするものだからです。

 

ここからさらに裏を返して、では人類を自称する政治集団とは何なのか、と続けられます。少し長いですが再び引用です。

一国家が、人類の名においてみずからの政治的な敵と戦うのは、人類の戦争であるのではなく、特定の一国家が、その戦争相手に対し普遍的概念を占取しようとし、自らを普遍的概念と同一化しようとする戦争なのであって、平和・正義・進歩・文明などを、みずからの手に取り込もうとして、これらを敵の手から剥奪し、それらの概念を利用するのと似ている。「人類」は、帝国主義的膨張にとって、とくに有用なイデオロギー的道具であり、その人倫的・人道的形態において、経済的帝国主義のための特別の器である。この点に関しては、プルードンの表現になる次の言葉が、当然の修正を加えて当てはまる。すなわち、人類を口にする者は、欺こうとする者である。「人類」の名を掲げ、人間性を引き合いに出し、この語を私物化すること、これらはすべて、苟もかかる高尚な名目はなんらかの帰結をともなわずにはかかげえないのであるからして、敵から人間としての性質を剥奪し、敵を非合法・非人間と宣告し、それによって戦争を、極端に非人間的なものにまで押し進めようという、恐ろしい主張を表明するものに他ならない。(63頁)

とても左派っぽいことを言い出します。正戦、無差別戦争観から差別的戦争観への転換は、"正しい"側の暴力行為を無制限的に正当化してしまうという危惧は多く表明されますが、それと似た指摘がされます。現代的に言えば、テロリストに対する扱いとかが該当するでしょうか。ここら辺は戦後のシュミットの思想に連なるところで、大竹弘二先生の博士論文をベースにした著作で『正戦と内戦 カール・シュミットの国際秩序思想』という大著がありますが、そこらへんに詳しそうです。(現在読み進め中)

正戦と内戦 カール・シュミットの国際秩序思想

正戦と内戦 カール・シュミットの国際秩序思想

 

 

第七章

進んで第七章では、国際政治から再び離れ、人間性と政治理論の関係を論じます。シュミットは、「真の政治理論とは、すべて人間を悪なるもの」と前提する」(74頁)と言い切ります。ところで丸山眞男はこの箇所も『現代政治の思想と行動』に収録された論文「人間と政治」で引用しています。但し、その理解の仕方は微妙です。シュミットと同様、多くの政治理論では性悪説的人間観が支配的であった、ということを述べてから次のように言い始めます。

しかしそういうことを別にしても、政治が前提する性悪という意味をもっと正しく理解しなければならない。性悪というのは、厳密にいうと正確な表現でないので、じつはシュミット自身もいっているように、人間が問題的な存在だということにほかならぬ...もし人間がいかなる状況でも必ず「悪い」行動をとると決まっているとすれば、むしろ事は簡単で本来の政治の介入する余地はない。善い方にも悪い方にも転び、状況によって天使になったり悪魔になったりするところに、技術(アート)としての政治が発生する余地があるわけである。(丸山眞男「人間と政治」『現代政治の思想と行動』364頁) 

ちなみに先の74頁の引用は、「すなわち問題をはらまぬものとしてでは決してなく、「危険な」かつどうてきな存在としてみなすものである、という奇妙な、そして多くの人々に必ずや不安を覚えさせる確認なのである」と続きます。果たして丸山的理解の妥当性は...というところですが、これはシュミットの他の文献にも照らしてみる必要性がでてきそうなカンジです...丸山眞男は、363頁で先にシュミットの「真の政治理論とは、すべて人間を悪なるもの」も引用しており、こうは言ってるけど実のところ正確には「問題的存在」だよね...と「人間を悪なるもの」と「問題的そんざい」を区別して(丸山は)理解しているようですが、シュミットを読む限りは特段の区別をしていない様子です。(細かいことに気を取られすぎかもしれません..) 

 

ただ、シュミットの人間観は経験的観察に根ざしたものかというと微妙なようです。むしろ政治学の前提として措くといった形です。

政治的なものの領域は、結局のところ、敵の現実的可能性によって規定されるのであるから、政治的な観念ないし思考過程は、人間学的「楽観論」を出発点としたのでは、具合が悪い。そんなことをすれば、それらは、敵の可能性を捨て去るとともに、すべての特殊的に政治的な帰結をも捨て去ることになるであろう。(78頁)

しかし、こうした「楽観論」はなかなかしぶとい。というのも、「一般に人間は、少なくとも調子がまずまずであるか、むしろ好調であるかぎりは、脅かされることのない平穏という幻想を愛するものである」ため、人間本性の悪性を説くような「「悲観論者」を許容しない」からである。(81頁)

 

「悲観論者」を批判し、人間学的「楽観論」に逃げ込むような態度は、それゆえに、政治的なものを回避する傾向に結びつく。シュミットによれば、そこで動員されるので厄介なのが、法や平和です。

最悪の混乱が生じるのは、法とか平和とかの概念が、このように政治的に利用されるとき、つまり、明解な政治的思考を妨げ、自己の政治的努力を合法化し、相手を無資格・不道徳の立場におとしめるために利用されるときである...法や道徳を、このように利用することの政治的意義に注目し、そしてとくに、法「なるもの」の「支配」とか、さらには至上性とかいう言い方に対して、常に立ち入った疑問を提起することは、政治的思考の立場からすれば、自明のことであって、不法でも不道徳でもない。