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杉田敦『境界線の政治学 増補版』

法政大学の杉田敦先生の論文集です。

境界線の政治学 増補版 (岩波現代文庫)

境界線の政治学 増補版 (岩波現代文庫)

 

 

境界線を議論するとは、「政治」を原理的に問うことに繋がります。それこそが、境界線を論じる意義になります。

 

「二つの政治観念」 

一般的に「政治」といえば、選挙や立法といった活動との関連において理解されることが多いと思います。しかし、こうした「合意論的な政治観」は、しばしばそれが前提としている境界線に無自覚になっている。それを鋭く指摘するのが、境界線を挟んだ内と外の抗争的関係を「政治」として理解する見方です。そこでは、合意形成による政治は、外との抗争で有利に立つためのものに過ぎないとされる。それを突き詰めたのがカール・シュミットで、単純化させて言えば、重要なのは良い合意に到達することではなく、外との抗争を首尾よく切り抜けるべく、時宜に応じて決断しておくことだとして、議会制民主主義を論難します。ここに、よく言われるように、合意と対立の「二つの政治観念」が浮上することになります。

 

しかし、後者の見方も、政治における境界線を万遍なく論じたものとはなりえません。後者の「対立論的政治観」は、対立関係を強調することで、暗黙の前提とされがちな境界線への無自覚さに反省を促すことになります。だがこれは、一つの境界線(多くは国境)を特権化し、その反面として、境界線内部(国家内)における亀裂の問題を矮小化しがちです。時にそれは、境界線内部における統一性、同質性の捏造を隠蔽しさえします。

 

「境界線」の相対化

したがって、「二つの政治観念」を指摘するだけでは、境界線を巡る諸問題を論じ尽くせないという訳です。こうして、何かの境界線を問い直すことが政治理論、政治の実践上の重要な課題として浮上することになります。当然、そのメインターゲットとなるのは国境という境界線であり、国家という存在です。

 

そこで、別の境界線を持ち出し、それをテコとして、国家や国境を相対化しようとする試みが登場することになります。マルクス主義が、階級という別の境界線を強調して、労働者階級の国境横断的な連帯を説くのはその典型でしょう。

 

これに対し、そもそも別の境界線をもって、支配的な境界線を克服しようとする戦略がそもそも妥当なのかも微妙なところだとの立場もあるでしょう。この場合にしばしば持ち出されるのが、「市場」を中心に据えるような見方です。しかしこれも、市場は国家の提供する法秩序をもって始めてその機能を十全に果たせるようになった、といった指摘によってその限界が論じられます。これは忘れがちですが重要な指摘でしょう。ロドリック(Dani Rodrik)などは、「資本主義の歴史とは、この教訓[市場は政府の提供する制度を欠いては機能しない]を何度も学ぶプロセスだ」(ダニ・ロドリック『グローバリゼーション・パラドックス 世界経済の未来を決める三つの道』273頁)とさえ言います。

グローバリゼーション・パラドクス: 世界経済の未来を決める三つの道

グローバリゼーション・パラドクス: 世界経済の未来を決める三つの道

 

 

その政治論上の「親戚」に当たるのは個人基底的な自由主義になるでしょうか。個人も国家を相対化するために呼び出されますが、「親戚」たる市場と同じように、個人と国家の関係性は一筋縄ではいかないようになっています。一方で、世界市民主義的な考え方などは、国家に分割されてしまっている個々人の、全世界的連帯を想起させます。他方で、ロックなどを引くまでもなく、国家は個人の人格や財産の権利保障のために必要とされてきた存在です。市場が政府の提供する法や秩序に依拠しているのとパラレルをなすように、個人の権利や自由の保障には、政府の機能が欠かせない訳です。多くの場合に両者は相関し、権利の十全な保障は、いわゆる大きな政府を要求することになります。しかしそうした政府の存在こそが、個人への国家介入に対する反発という情念を生み出し、国家を相対化する試みを呼び出すことになる...という皮肉がある訳です。

 

個人と国家

ここで面白いのが、「個人」も境界線と無縁ではいられない、むしろその源泉となりうるという指摘です。身体の輪郭をその境界線として、身体に対する他者からの侵害を排除しようとする。その延長線上に、身体の働きかけ、すなわち労働の対象がその人の私的所有物となるという議論が展開されることになります。そして、これらの保護を確実にするために、政府が正当化されます。近代において、個人主義と政府機能の強化は、たしかに手を携えて発展してきたのです。ここに、「身体」に規定される「個人」にとっての「境界線」が、「国境」に規定される「国家」にとっての「境界線」を生み出すことになったという連関が見出せるでしょう。近代的な人格概念や私的所有権が存続する限り、あまり事態は変わり得ないのかもしれません。逆に言えば、それが変われば...というと別の方向性に行きそうなのでこの辺にしときましょう。

 

これを踏まえると、個人を強調することで国家を相対化させようとする戦術の限界も浮かんでくる筈です。個人の権利や自由をその侵害者から保護するためには、そのための制度を提供する主体が必要になります。国家をどれほど相対化させても、そうした制度の需要が変化しない限りは、代替の国家的なものが必要になるでしょう。それが不要だと論じれるのは、国家こそが諸悪、人間の負の側面の源泉で、国家さえなければ人間は悪をなさず自然に秩序を形成できると主張する無政府論者だけです。

 

境界線との付き合い方

結局、本書全体で仄めかされているように、境界線と縁をきっぱり切ってしまうという方向性は難しそうです。境界を引くことから完全には逃れられないのであれば、重要になってくるのは境界線との付き合い方ということになります。境界線を引き、「内部」を画定するという行為には必然的に「排除」が伴うことに自覚的になること、既存の境界線もしばしば偶然の産物でしかないことがありうるので、それを絶対化、固定化しないように努めることが主張されます。こうして、境界線の恣意性に対する批判を、境界線の一方的解体に向けるのではなく、その相対化や柔軟化に繋げるという積極的役割を期待する方向性が見出される訳です。

 

後半の方では、ベンヤミン、シュミット、アガンベン、デリダなどの様々な議論を引きながら政治の原理的な問題を論じていくので面白く読めるのが多かったです(ここらへんを紹介しようとするときりがないのでこの辺で)。時にはこうした類を読むのも刺激になりますね。