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ジョセフ・ヒース『啓蒙思想 2.0』

以前からその存在は知っていたのですが、宇野先生の『保守主義とは何か』で参照されていたことから気になって読むことにした本(学術書ではなく一般書ですが)です。期待した以上に読ませるものでした。

啓蒙思想2.0―政治・経済・生活を正気に戻すために

啓蒙思想2.0―政治・経済・生活を正気に戻すために

 

 

保守主義とは何か - 反フランス革命から現代日本まで (中公新書)

保守主義とは何か - 反フランス革命から現代日本まで (中公新書)

 

 

 著者はカナダ、トロント大学の哲学者、ジョセフ・ヒース(Joseph Heath)さん。

 

本書の醍醐味は、人間の認識(理性/直感)から説き起こし、政治・社会論にそれを敷衍していくことにあるでしょう。その結論は、新たな形での理性の擁護(「啓蒙思想2.0」)と保守主義的な「熟慮」、「スロー・ポリティクス」の勧めとでも要約されます。

 

「啓蒙思想2.0」と保守主義の擁護

ですが、「直感」的には、この両者がどう相容れるのか不思議になるでしょう。というのも、近代における保守主義は、(日本の「保守」のような妄想に走りがちなイメージを想起すると混乱しそうなのでやめましょう)イギリスのバーク(Edmund Burke)などを想起すれば明らかなように、啓蒙主義への反動として生じてきた筈です。そうであれば、「啓蒙思想2.0」と、保守主義的「熟慮」がなぜ同居するのか、との疑問が浮かんでくるのは自然なことでしょう。

 

この疑問を解くカギは、啓蒙思想「2.0」にあります。ヒースは、啓蒙思想1.0、すなわち18,19世紀からの近代的啓蒙主義(「啓蒙思想1.0」)は、孤立した個人の理性の能力を過大評価していたことに、その挫折の原因があると論じます。ヒースはこれを斥け、代わりに、「集団」的なプロジェクトとして、新たな形で啓蒙思想を定式化しようと提案します。「2.0」が「2.0」である所以は、「集合」的プロジェクトとして、かつての「ウェブ2.0」とのアナロジーでこれを理解できようとの意図とのこと。ただ、この「集団」という言い方はややミスリーディングで、それには、理性の「公共的」な使用の尊重といった意味(「集合知」に近いと理解すればよいでしょうか)のみならず、時間軸的な意味も含まれるようです。これは何も難しいことではなく、「何世代にもわたって受け継がれてきた社会制度と文化」に刻印された、「それ相応の先人の知恵」(406頁)を過小評価するべきではない、との指摘を引用すれば、その意味するとこをもすぐに理解できることと思います。同時にそれは、社会工学的な発想への警戒感を示唆しており、そこから「啓蒙思想2.0」と保守主義的「熟慮」の両者の、一見すると奇妙な「同居」も腑に落ちるものとなる筈です。

 

しかし、残念ながら現状は、本書の提唱するような方向とはかけ離れてしまっています。(というか、それが問題意識となってこれを世に出したのですが)「行き過ぎた」理性への信頼を諫めていたはずの「保守」は、時を経て単なる反合理主義に堕し、直感による政治を説く「常識保守主義」になってしまっている。他方で、啓蒙思想1.0の主導者であったはずの左派は、戦後期のポストモダン的風潮にあって、理性の負の側面を強調し、それを徹底的に貶めることとなった。現代はその成れの果てであって、(副題にあるように)政治、経済、生活が「正気」を失っている。ヒースは、このいずれも斥けつつも、やはり進歩のためには理性が必要不可欠であり、「啓蒙思想1.0」は「2.0」に修正したうえで、改めてそれを擁護していくべきとの立場を取る訳です。

 

雑感

以下は気になったこと雑感。

 

1. 「啓蒙思想2.0」について

初見のときは、ポストモダンによって強く否定されたモダンを救済するという方向性が、ハーバーマスの議論を彷彿とさせるなぁとぼんやり思っていたのですが、実際ハーバーマス関連の論文をいくつか執筆しており、少なからず影響を受けているようですね。(訳者あとがきでも指摘されてました)「理性」をその汚名から救済しようとするような試みは他にも多くあり、本書の第8章でも言及されているのですが、ハーバーマスのコミュニケーション的理性などはどう評価しているんでしょうね。(論文にあるようなので読んでみようかな...)

 

2. 「啓蒙思想1.0」の理解について

一般書なので突っ込んでも仕方ないのですが、近代啓蒙の理解が一面的に過ぎるのではないかと感じる場面が多かった。『岩波講座 政治哲学2 啓蒙・改革・革命』ではこんな指摘がされます(序論 ⅷ頁)。

...人間の理性を無条件に信奉した主知主義という啓蒙のイメージは、のちの保守主義やロマン主義が構築した歴史的産物である。たしかに啓蒙の多くの思想家は人間の知的能力を重視して、「理性」という語彙をよく用いた。しかしこの時代の特色は、むしろ情念や利己心の役割に対する注目にもある。あるいはヒュームやカントがおこなったのは、理性を吟味してその限界を示すことであった。啓蒙の多くの思想家に見られるのは、理性崇拝ではなく、人間の知的能力すら冷徹に吟味する批判や懐疑の精神である。

当時の社会で一般的に受け入れられた「啓蒙」と、カントらの思索とを区別する必要があるのでしょう。本書が想定しているのはおそらく前者で、フランス革命期における理性崇拝の例などが言及されています。ただ、少し紛らわしいのかもしれません。

 

他にも、言語と理性の関連性(第1章)、差別のくだり(第13章)など、とても興味深く読める箇所が多いので一読の価値はあると思います。